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9.302025
友情という名の庭にて

なぜ今友情なのか
暑く、長い長い夏を越えて、朝晩には虫の音とともに涼やかな風が吹くようになりました。秋は人恋しい季節とも言われています。ふとした瞬間に、誰かの声が聞きたくなったり、昔の記憶が静かに立ち上がってきたりするのも、この季節ならではのことかもしれません。
私の両親はおかげさまで現在も二人で健在ですが、二人とも八十代半ばと九十手前。自分たちの健やかな生活を持続するのでもう精一杯な年齢になってきました。
私が迷った時、落ち込んだ時、誰かに頼りたくなった時、たわいない話をしたい時、一番頭に浮かぶのは両親でした。しかし、今では私が二人の安全で安心な生活を気遣う立場になりました。私はもう親に頼れなくなってしまいました。そんな中、私の中で友情の価値や必要性が爆上がりしています。しかし、友情はポジティブな言葉とは逆に、一言で語れないほどの長い歴史、別れ、疎遠、痛み、後悔を内包しています。様々な胸の痛みを感じるために直視することができなかった友情ですが、今では喫緊の課題でもあります。
友情の功罪
若い頃、友情は無限で不滅で尊く、いつも私の側にあるものだと思っていました。友情が年齢や置かれている状況により変質していくものだとは、はかなくあっけないものだとは、まったく想像もしていませんでした。
そして一度友情が築かれれば、数年から十数年の空白を一瞬で埋めることができると信じていました。しかし五十を超え、中年を迎えた今、友情は自分の心身と同じでメンテナンスが必要なもの。尊いけれど、持続させるためには時間も気持ちも必要な、労力のいるもの。そして一度失うと、回復や取り返しが難しいもの。
それでも、偶然にも奇跡的にも長く友情に恵まれたら、それはこの上ない幸運です。家族や親族ほど濃くもなく、法律上の責任もなく、双方の合意と同意に基づく自由な関係。しかし私には、友情は血縁や親族姻族と同じぐらい大切なもの。自分を救い、肯定してくれ、かけがえのない時間を共有できる関係。
友情の必要十分条件
人生の良い時も悪い時も、それぞれ乗り越え、その傍らで横に居続けること。それが私にとっての友情です。
上澄みだけの友情は、私にはとても難しい気がします。全人格的なつながりと責任、負担を背負う覚悟がなければ、友達にはなれない。けれど、それほど強いつながりではなく、近況を報告したり、食事を楽しんだり、愚痴や不満を言い合える気楽な友達も、もちろん必要だと思う。
だけどそれは、私には「知人」であり、「友人」ではないのかもしれません。
私はつくづく重たいし、融通が利かない女でもある。でもそれは、誰かを軽んじたくないという思いの裏返し。誰かに軽んじられることが、私にとって深く傷つくことだから。
友情の庭とは
友情は、咲いた花だけを愛でるものではなく、根を張り、土を耕し、時に枯れた枝を見つめながら、それでも手をかけ続ける営みなのかもしれません。
私の庭には、色とりどりの思い出と、静かに散った花びらが積もっています。それでも、また季節が巡れば、新しい芽が顔を出すかもしれない——そんな希望を胸に、私は今日もこの庭に立ち続けています。
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