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【お盆の時期だからこそ】炎天下の墓参りと映画『花まんま』──行政書士が感じたあの世とこの世の境界、家族の記憶

【お盆の時期だからこそ】炎天下の墓参りと映画『花まんま』──行政書士が感じたあの世とこの世の境界、家族の記憶

 

※本記事には映画『花まんま』の内容・結末に関するネタバレが含まれます。

お墓参りに行く前夜、ふとした思いつきで映画[『花まんま』を観ました。
朱川湊人氏による直木賞受賞の名作短編を原作とし、前田哲監督、鈴木亮平さんと有村架純さんが兄妹役を演じた作品です。どんな内容かも知らずに再生したのですが、観終わったときには「これはお盆にこそ観るべき作品だった」と静かに思いました。

あの世とこの世の境界がゆるやかに近づく季節に、この映画が描く“記憶の継承”と“家族のかたち”は、私自身の生活や墓参りの習慣と深く響き合いました。

 

■ **二つの記憶を抱えて生まれた少女・フミ子**

物語の中心にいるのは、有村架純さん演じるフミ子という女性です。
彼女は生まれる直前、病院ですれ違った若い女性・繁田喜代美さんの“記憶”を抱えて生まれてきます。

自分の家族の記憶と、喜代美さんの家族の記憶。
二つの人生が一つの身体に宿ったまま成長していく設定は、アニメ・ドラマ化もされた[[『【推しの子】』]にも通じるものがあり、命の火が消える瞬間に別の命へと記憶が移るという、日本的な“生まれ変わり”の思想が静かに息づいています。

フミ子の両親は早くに亡くなり、兄・俊樹(鈴木亮平さん)と二人で生きてきました。
しかしフミ子の心には、もう一つの家族の記憶が鮮明に残り続けます。兄はそれを受け入れられず、妹は喜代美さんの家族が暮らす彦根に想いを寄せます。二人の間に流れる静かな葛葛藤が、この映画の大きな軸になっています。

 

■ **行政書士として感じる“記憶”と“家族”の不思議な関係**

行政書士として日々、戸籍や家族関係の書類に触れていると、「家族とは何か」という問いは常にそばにあります。

戸籍は血縁や法律上の関係を正確に記録しますが、人が誰を家族と感じるかは、必ずしもその枠だけに収まりません。
フミ子は、戸籍上の家族とは別に、喜代美さんの家族を“心の家族”として抱え続けました。これは法的な家族ではありませんが、記憶という形で確かに存在する“もう一つの家族”です。

家族とは、血縁という制度だけでなく、記憶・行為・時間の積み重ねによって形づくられるものなのだと、この映画は静かに教えてくれます。

 

■ **兄が見た夢と、あの世のルール**

結婚式の前日、兄は不思議な夢を見ます。
亡くなった父と母が、喜代美さんを天国へ連れていくのです。「フミ子の中に記憶が入り込んだのは迷惑だった」と言いながらも、「死んだらしょうがない、こういうこともある」と受け入れる両親の姿が印象的でした。

このシーンは、小説[[『流星ワゴン』]を思い出させるような、あの世とこの世がふっと近づく瞬間の温かさがあります。

兄はその夢に背中を押され、喜代美さんの家族を妹の結婚式に招く決意をします。
そして式の最後、喜代美さんの記憶はフミ子からすっと消え去り、彼女は初めて会う人のように繁田家の人々に挨拶します。

しかし、喜代美さんが幼い頃に作った“花まんま”──つつじの花をご飯に見立てた美しい遊びだけが、引き出物としてそっと残されていました。
記憶は消えても、象徴は残る。その静けさが胸に残りました。

 

■ **成仏とは何か──役割の完了という視点**

成仏という言葉は、宗教的な概念でありながら、日本人の生活文化の中に深く根づいています。
行政書士として相続や死後事務に関わると、「人はいつ“役割を終えた”と感じるのか」という問いに直面することがあります。

成仏とは、思いが成就し、役割を終えた魂が静かに旅立つことです。
喜代美さんは、フミ子を通して最後の願いを果たし、穏やかに消えていきました。宗教的な説明を超えて「人生の役割が完了した物語」として受け取ると、とても優しく心に響きます。お盆という境界が曖昧になる季節に、この成仏の描写は非常に自然に息づいていました。

 

■ **猛暑の墓参り──「今生きている意味」を確かめる**

今年も35度近い炎天下の中、墓参りに行ってきました。
年々感じるのは、墓参りとは単なる年中行事ではなく、「自分が今この世にいる意味を確かめる行為」だということです。

故人を直接知らなくても、法事や冠婚葬祭に参加し続けることで、少しずつ関係性が育ち、記憶を超えた“つながり”が生まれていきます。
フミ子が二つの家族と向き合った姿と重なり、記憶とは個人の中だけにあるのではなく、人と人との行為や時間の積み重ねの中にも宿るのだと感じました。

少子高齢化で墓じまいが増え、帰省も難しくなる時代ですが、それでもこの暑い時期に墓参りをすることには確かな意味があるのだと思います。

 

■ **人と動物の境界がゆらぐ時代に**

映画オリジナルの要素として、フミ子の婚約者・太郎が「カラスの言葉がわかる」という設定があります。
近年の[東京大学・鈴木俊貴准教授の研究]動物言語学)など、科学の側面と人間以外の生き物とのコミュニケーションが解明されつつある現代と重なり、非常に新鮮な世界観でした。

今回訪れたお寺にも、ペットの合祀墓が新設されていました。もはや「ペット」ではなく、家族として弔われる存在です。人と動物の境界もまた、静かに変わりつつあることを映画と現実の両方で強く実感しました。

 

■ **『花まんま』が教えてくれたこと**

 

映画『花まんま』は、家族とは何か、記憶とは何か、そして人が役割を終えて旅立つとはどういうことかを静かに問いかける作品でした。

記憶は時に他者と重なり、時に消え、時に象徴として残ります。家族は血縁だけでなく、行為と時間がつくるものです。

そして何より、最後に“花まんま”だけが残るという優しさ。

ファンタジー要素が作品に柔らかさを与え、目には見えない世界──生まれ変わり、あの世、この世、記憶──という曖昧で不確かな領域に、新しい可能性と温かさをそっと添えていました。

お盆という特別な時期に出会えたこの映画は、私自身の生活や墓参りの習慣と重なり、“今ここに生きている意味”を静かに照らしてくれたのです。

以前本ブログでお盆の時期に書いた作品があります。よければお読みください。

【お盆の時期だからこそ】映画『黄泉がえり』から今はき大事な人との思い出と墓じまい、若者のお盆の意識について考えてみよう【話題の映画・ドラマ・アニメから考えるブログ⑧】

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