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映画「おくりびと」から死への「ケガレ」感情と死生観について考えてみよう【話題の映画・ドラマ・アニメから考えるブログ⑨】

映画「おくりびと」から死への「ケガレ」感情と死生観について考えてみよう【話題の映画・ドラマ・アニメから考えるブログ⑨】

 

  • 「おくりびと」の映画概要とあらすじについて
  • 「死」をケガレとして扱っている、普通にやっている行為について考えてみよう
  • 小谷みどりさんのライフデザインレポート「死のイメージと死生観」から死のイメージを考えてみよう
  • みんな、死んだらどこに行くのでしょうか

 

それぞれ一つずつみていきたいと思います。

 

「おくりびと」の映画概要とあらすじについて

 

『おくりびと』は、本木雅弘さん主演の2008年の日本映画です。日本アカデミー賞の最優秀作品賞を受賞し、日本映画で初めてアカデミー賞外国語作品賞を受賞するなど、国内外問わず数々の賞を獲得した、とても評価の高い作品です。この作品は、青木新門さんの「納棺夫日記」を読んで感銘を受けた本木雅弘さんが、青木新門さんに直接かけあって映画化を依頼したそうです。しかし原作の映画化には合意ならず、別作品として映画化されました。

本木雅弘さん演じる主人公はチェロ奏者として在籍していた楽団が解散し、妻(広末涼子)と母が残した山形の実家に戻ることを決意し、条件の良い新聞広告の求人欄をみて応募します。その会社が納棺の仕事をしていることを知り、最初は戸惑いますが、社長に押し切られる形で仕事を始めます。妻には納棺の仕事をしている事を告げずることができません。しかし、色んな「死」と対峙し、社長の納棺師(山崎努)の死者の尊厳を尊重し、静謐な時間に、一つ一つの正確で美しい所作に感銘を受け、最初は戸惑っていた自分の仕事に徐々とやりがいと誇りを持っていきます。しかしある日妻に納棺師の仕事がばれ、「もっと普通の仕事をしてほしい。」「汚らわしい、触らないで」納棺師の仕事に理解を得られず実家に帰ってしまいます。銭湯を切り盛りしていた主人公の同級生の母親の死を、本木雅弘さんが丁寧に美しく扱う真摯な仕事姿を初めて目にした妻は、初めて夫の仕事を理解します。それ以外にも自分を捨てた父親とのわだかまりの解消というテーマもあります。

以上が映画の概要になります。なにしろ本木雅弘さんの納棺師としての所作が美しく、死者の尊厳への尊重が画面上から伝わってきます。また山形県の豊かな自然、死の対比となる、数々の美味しい食のシーン、映画で流れるチェロの美しい調べなど、見所満載の作品です。

 

 

「死」をケガレとして扱っている、私たちが普段、普通にやっている行為について考えてみよう

 

映画の中で、主人公の「毎日死体に触る」という仕事について、周りの人から理解が得られておらず、差別的な言葉をかけられるシーンがいくつかあります。納棺師の仕事がばれた際に妻から言われる「触らないで、汚らわしい。」という言葉、同級生から「あんな仕事しないで、もっと普通の仕事をしろよ。」、ある仕事の現場で、少女の死に関わった少年に対し、先生と思われる人物が放った言葉です。「この人みたいな仕事をずっとできるのか、償えるのか。」私が一番胸に刺さった言葉です。本人が誇り、やりがいを持っている仕事に対して、人生をかけて償う、日の目を見ることができない仕事だと他者から言われます。

 

しかし、実際に以下の行為は普段普通にみんな行っているのではないでしょうか。

  • お葬式の帰りには、必ず家に上がるまでに清めの塩を浴びる
  • 友引にお葬式をすると「故人が友を自分と一緒に冥途に引っ張っていってしまう恐れがあり、お葬式に友引はしない。こちらは先日の記事で「火葬待ち」の記事を書きましたが、火葬待ち解消のために友引の火葬を増やす選択肢も言及されています。
  • 身内に死者がでると「喪に服す」と一般的に言われ、一定の期間、故人の死を悼む慎ましく過ごすとされています。お祝いごとは避けた方がいいと言われています。
  • 霊柩車を見たら親指を隠す。

(出所)第一生命経済研究所 死のイメージと死生観

 

以上お葬式に関わるものだけでも、「死」に対するケガレの儀礼として上記が日常的に行われています。こういういった感覚と死に対する恐怖、ケガレは21世紀を迎える高度情報化社会でも、脈々と伝承されてきている死生観なのかもしれません。また今回の映画の地は山形県です。地域差も多少関係していると推察されます。

 

 

小谷みどりさんのライフデザインレポート「死のイメージと死生観」から死のイメージを考えてみよう

 

本木雅弘さんが、映画の最初では「ご遺体」のことを「死体」とヒトではなくモノのようなニュアンスで話すシーンがいくつかあります。これは主人公にとっての死が、普通ではなく特別で、触れてはいけないケガレとしての「死」だったからではないでしょうか。小谷みどりさんのライフデザインレポートでは、死のイメージの調査結果が記載されています。その中にとても興味深い内容があります。「遺体」に対するイメージが、自分と面識のない第三者のものと、自分に近い身内では意識が異なるという結果です。(第三者の遺体だと、「近寄りたくない」人が58.4%いたが、家族の遺体の場合、わずか8.7%と激減する。同様に、「気持ち悪い」(54.7%→7.5%)、「恐い」(52.5%→18.3%)、「暗い」(50.4%→21.2%)と、いずれにも大きな格差がある。特に、他人の遺体には「近寄りたくない」、「気持ち悪い」と感じる人は多いのに、家族の遺体に対しては、こうした嫌悪的な感情がほとんど見られない。)レポートからそのまま抜粋。現代人にとって亡くなった家族は遺体ではなく「今は会えない家族」といういつまでも自分の家族のままなのかもしれません。それに比べ第三者の見知らぬ人の死は、「死体」と認識されているのでしょう。

(出所)第一生命経済研究所 死のイメージと死生観

 

 

みんな、死んだらどこに行くのでしょうか

劇中の広告でも「旅立ちのお手伝い」と載っていました。銭湯に50年以上通い続けた常連客で火葬場の職員の平田さんも、鶴の湯の山下夫人を見送る際に、「また会おうの」と小さく声をかけます。平田さんは火葬場の職員として、「死は門であり、その門をくぐって違う世界にいき、自分が見送った人たちとは、またいつか会える」、自分を門番と言っています。お盆も黄泉の国から、4日間だけ、自宅に戻ってくるならわしで、ご先祖様や故人をもてなす行事です。日常的に「あの世」や「三途の川」という言葉を使いますし、死んだ後の世界がある前提の行事も多いです。しかし実際のところ、私たちは死んだらどこに行くのでしょうか。2020年にお亡くなりになった石原慎太郎さんは、「死ねば虚無しかなく、虚無は実在する。」という言葉を残しました。

死んでみないと誰にもわかりませんが、「また会おうの」という別れの言葉は、生きている人にも亡くなった人にも、なんだか優しい響きだと思いました。

「おくりびと」、映画完成から15年遅れて拝見しましたが、胸に残るとても素晴らしい映画でした。もしよろしければ、ご覧ください。

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